本文へスキップします。

【全】言語リンク
【全・日】検索フォーム
検索キーワード
【全・日】ヘッダーリンク
【全】言語リンク-SP
【全・日】検索フォーム-SP
検索キーワード
よく検索される語
【全・日】ヘッダーリンク-SP
承認:エディタ
検索候補
ページタイトル

新着情報

新着情報(日本語)

2021年03月31日

活動報告(写真)泉裕泰台北

泉裕泰代表がバートン氏銅像回復除幕式に参加しました

 本30日、当所泉裕泰代表が、柯文哲市長、ジョン・デニス英国在台弁事処代表とともに、自来水博物館で行われたバートン氏銅像回復除幕式に出席しました。除幕式は東京とインターネットでつないで行われ、東京からは謝長廷・台北駐日経済文化代表処代表やバートン氏のご子孫も参加し、古屋圭司日華懇会長や小池百合子東京都知事からのメッセージも紹介されました。水不足の現在、出席者は「飲水思源」しつつ日本時代のバートン氏の功績を偲びました。

泉裕泰代表の挨拶

 本日、この地においてジョン・デニス英国代表とともに、稲葉紀久雄博士のご尽力のもと実現したバートン氏の銅像の除幕式に立ち会えることを非常に嬉しく思います。
 外国人技師として日本各地の上下水道の整備に携わっていたバートン氏は、後の台湾総督府民政長官で、当時は総督府の衛生顧問を務めていた後藤新平に乞われ訪台しました。実は、後藤新平の誘いを受けた時、バートン氏は日本での任期を終え、妻子を連れて9年振りに英国に帰る決意を固めていたのですが、後藤新平の熱心な説得についに折れ、台湾行きを決めたそうです。二人とも、この決断が今後大きくバートン氏の運命を変えることになるとは思ってもいなかったことでしょう。
 バートン氏が訪れた当時、台湾は風土病がはびこり、山地では抗日感情から襲撃を受ける可能性もある危険な地でした。しかし、バートン氏は快適な事務所での勤務に甘んじず、帯同した教え子、浜野弥四郎とともに炎暑のなか自ら水源地を巡り、台湾の上下水道整備のため尽力しました。しかし、ご承知のとおりバートン氏は調査の最中、まさに自らが根絶しようとしていた風土病に感染し、1899年、日本において不帰の客となりました。
 その後、バートン氏の遺志を継いだ浜野弥四郎は、師とともに行った調査を元に基隆、台北、台南で次々と水道インフラを完成させていきました。バートン氏の銅像の設立のために募金や用地確保に奔走したのも、浜野弥四郎でした。そして、その浜野弥四郎に仕え、台湾の水利工事に多大な貢献を行ったのが、「嘉南大圳(かなんたいしゅう)の父」として、日台の人々に深く記憶されている八田與一その人でした。
 八田與一は浜野弥四郎の離任後、その功績を称えるため台南に浜野弥四郎の銅像を設け、台北にはバートン氏、台南には浜野弥四郎、師弟の銅像が、それぞれ台湾を見守るように立っていたそうです。残念ながら浜野弥四郎の銅像も戦時中に失われてしまいましたが、こちらは2005年に許文龍氏の尽力により元の場所に再建されています。今、バートン氏の銅像の除幕式を迎え、台湾のために尽力した日英の師弟が再びこの地に揃う現場に立ち会えることに、大きな感動を覚えます。
 バートン氏の思いは浜野弥四郎に受け継がれ、浜野弥四郎の思いは八田與一に、そして八田與一の思いは今も日台の人々に受け継がれています。バートン氏を台湾に招いた後藤新平はこのような言葉を残しています。「金を残して死ぬのは下、事業を残して死ぬのは中、人を残して死ぬのは上」。バートン氏にはじまる台湾水道の貢献者たちの事業は今なお台湾の地を潤し、その思いは今なお日英台の人々の友好の心を潤しています。私としても、日台友好の先人達の恩恵にあずかり、その末席に連なるものとして、日台関係のさらなる発展のため、引き続き微力を尽くしていきたいと思います。ご清聴ありがとうございました。